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●大宰府(福岡県太宰府市)より⑥~大規模鋳造工房としての役割を担った大宰府

2017/ 06/ 09
                 
〇大規模鋳造工房跡の鉾ノ浦遺跡   
                   
  観世音寺の南に一キロ近く歩くと、太宰府中学校(太宰府市五条)にたどり着きます。学校北側の住宅地の周辺は、かつて銅矛一〇本が出土したことから「鉾ノ浦」の地名の由来です。

 その学校下から、十三世紀から十四世紀の梵鐘の鋳造土坑や溶解炉の炉底部、作業場の掘立柱建物、さらには梵鐘鋳型が七種類、仏像の光背、釣燈籠、鍋などの鋳型や鉱滓が多数出土し、「九州初、全国でも最大級」と騒がれたのが、昭和五九(一九八四)年の発掘調査です。

DSC06027.jpg大宰府中学校 
DSC06025.jpg 地名表示板
 西鉄五条駅の近くは、太宰府市の中心市街地で、商業施設が立ち並ぶ賑やかな街並みですが、ここから見える緑映える小高い丘の上に中学校は所在しています。地名表示板はその学校近くの交差点です。ここより先は長い坂道が続き、周辺は家々が立ち並ぶ住宅地です。かつては森林に覆われていたと想像されますが、太宰府天満宮はここより四〇〇ⅿほどの近さです。工房の立地条件として恵まれた場所だったと思われます。

 大宰府ではこの鉾ノ浦遺跡の他に、御笠川南条坊遺跡、大宰府史跡、大宰府条坊跡、宝満山遺跡群などがあり、中世の大宰府は、九州の中心的な大規模鋳造工房としての役割を担っていたと思われます。その中心的な工房が鉾ノ浦遺跡です。


〇九州の生産活動の中心であった大宰府

 言うまでもなく、ここ大宰府は奈良・平安時代に九州を治め、外交や防衛の重要な任務を担ったことより「遠の朝廷」と呼ばれ、「人・物殷繁にして、天下の一都会なり」(『続日本紀』)と平城京に並ぶ「西の都」として大いに賑わいました。

 そして、中世に入ると大宰府の門前町にあった鋳物座、米屋座、染物、細物、相物、鍛冶屋の天満宮六座組合が、源頼朝から九州の「諸商売頭座」を仰せつかったことが『六座目録』、『六座之記録』に記されています。この時期、活発に生産活動がなされ、九州の生産活動の中心を担っていたのです。

 後に元寇に至る元の皇帝フビライ・ハーンの親書が届いたのが、文永五年(一二六八)年です。この地の対外防衛拠点としての重要性が再認識されたことで、盛んな生産活動が行われ、また、大規模化していったと思われます。

 
〇騒然とした世情の梵鐘の生産

 弘安の役から三年の歳月が過ぎた弘安七(一二八四)年、大宰府の「丹治恒頼」という住人が、薩摩浄光明寺の梵鐘を鋳造したことを薩摩藩の史料『薩摩藩旧記』は記しています。

 この浄光明寺を創建したのは、島津家第三代当主の島津久経です。『蒙古襲来絵詞』にも描かれているように、元寇では島津軍を率いて大活躍して武功を挙げた有力な鎌倉幕府の御家人です。 おそらく鉾ノ浦の鋳造工場で、大きな梵鐘の生産が為されていたのをよく見聞していたのでしょう。

 それにしても、まだまだ騒然とした世情です。鋳造工場の活気と「ゴ~ン、ゴ~ン」と街中に響く試し打ちの梵鐘の音色は人々の不安を鎮めたに違いありません。

この梵鐘は現存していませんが、鉾ノ浦の鋳造工房で生産された梵鐘が九州各地へ運ばれていたようすが伺えます。


〇大宰府から芦屋へ移った生産工房

 その後、十五世紀以降、不思議に大宰府では鋳造関連の遺跡はほとんど見られなくなります。それに代わるように芦屋(福岡県遠賀郡)の地で茶釜や梵鐘の製作が盛んになり、やがて全国に「東の天明、西の芦屋」と称されるようになっていきます。

 おそらく大宰府の鋳物師が芦屋に流れついたと思われますが、その芦屋釜もいつしか廃り、鋳物師は博多へ流れて、先の神牛など製作するように、博多鋳物師として活躍したのです。
 

  大宰府は魅力ある街です。まだまだ、探索したいこともありますが、ひとまず、この大宰府の章は終わります。
 次はどの街を訪ねようかな。
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