●大宰府(福岡県太宰府市)より④~道真公が落涙した観世音寺の鐘音~
2017/ 06/ 01 太宰府天満宮を出て都府楼跡に向かい二〇分ほど歩くと観世音寺に着きました。参道の賑わいを離れ、小鳥のさえずりも聞こえる静かな散歩道です。
〇斉明天皇の冥福を祈る観世音寺
都府樓纔看瓦色(都府楼はわずかに瓦色をみる)
観音寺只聴鐘聲(観世音寺はただ鐘声をきく)
道真公は配所の南館で、ひたすら謹慎の日々を過ごしています。朝夕に聴こえてくる鐘の音を侘びしい館で聴くばかりで、一歩も門を出まいとの悲痛な思いが綴られた七言律詩『不出門』の中の一文です。その彼に届いた鐘音は幽閉先から約一・四キロ離れた古刹、観世音寺の梵鐘(国宝)でした。
(榎社)道真公が失意の日々を過ごしました。この裏に、小さな浄妙尼寺が建っています。
(梵鐘)この梵鐘の音色は道真公だけでなく、いろいろな方々を魅了したようです。
手を当てて 鐘はたふとき 冷たさに 爪叩き聴く そのかそけきを
アララギ派の歌人長塚節もその一人です。喉頭結核を病んでいた彼は、治療の為に東京から福岡へやってきますが、この観世音寺を訪れてこの歌を詠みました。彼が三七歳で亡くなるわずか二ヶ月半前のことです。胸迫るものがあります。
(長塚節の石碑)敷地の樹木に囲まれて薄暗い場所に寂しげに立っています。
ここ九州筑紫の地で、一人の女帝が波乱の生涯を閉じました。皇極天皇として即位し、その後、再び斉明天皇として即位し、百済国救援のために九州へ出兵するも本陣を敷いた橘広庭宮(福岡県朝倉市)で崩御されました。
観世音寺は御年六八歳の母、斉明天皇の冥福を祈り中大兄皇子(天 智天皇)が発願以来、八〇余年もの歳月をかけて、中央から造観世音寺別当として派遣された当代きっての高僧、玄昉のもとでようやく完成し、落慶法要供養が行われたのが、天平十八(七四六)年六月十八日です。
(観世音寺参道)
(講堂、本堂)
正面には本堂、左手に金堂(いずれも福岡県文化財)が見えます。江戸初期に黒田氏が再建した建物です。ちなみに太宰府天満宮でも感じましたが、参道や境内には楠が繁っていますが、この楠は太宰府市の「市の木」で、言うまでもなく「市の花」は梅の花です。
〇配流、転落、怨念の地であった大宰府
この晴れの日を記した『元亨釈書』 や『扶桑略記』などの記述は、何とも凄まじいものがあります。
「玄昉法師、大宰府観世音寺供養之日、為其導師、乗於腰けて、後日、其首落置干興福寺」と、導師の玄昉が梵鐘を鳴らした時、にわかに雲が曇り雷とともに悪霊が現れ、玄昉を掴んで空に舞い上がり、頭は興福寺(奈良市)の境内に、胴や手足は、ここ大宰府の地に落ちたとあります。
観世音寺の裏手の民家に、ひっそりと佇む簡素な石塔が、弟子たちが埋葬した「玄昉の墓」と言い伝えられている宝篋印塔です。
(玄昉の墓)
手書きの案内板もありましたが、観世音寺を訪れる人も気づかずに通り過ぎてゆくようです。ちなみに、「玄昉の頭塔」が興福寺(奈良市)近くにあります。大きなピラミッド型の頭塔のようですが、夏の奈良旅行を楽しみにしているところです。
世間では「藤原広嗣が霊の為に害はれぬ」(『続日本紀』)と、藤原広嗣の怨霊の仕業と噂しますが、その六年前の天平十二(七四〇)年です。
奈良の都で栄華を極めていた玄昉と吉備真備の両人の独断専横が目に余ると、藤原広嗣が九州より反乱を起こしました(藤原広嗣の乱)。 広嗣はあっけなく討伐されたものの、彼は大宰少弐、つまり、広嗣自身、中央から左遷された身で、強強い不満を抱いていたのです。そして、一方の玄坊もまた、配流された身でした。
「大君の遠の朝廷」と華やかに詠まれた大宰府は、中央からは遥かな配流、転落、怨念の地でもあったのです。
その極たる怨霊伝説が道真公です。京都では彼の死後、雷鳴、地震、日食など続けざまに異変が起こり、また、藤原時平一族の死、落雷による公卿の死傷、醍醐 天皇崩御など凶事が続出したことから、世間では「世を挙げて云う、菅師 の霊魂の宿忿 の所為なり」(『日本紀略』)と、道真の怨霊によると噂し、当時の貴族たちは畏れおののきました。
この大混乱の様子は『北野天神縁起絵巻(承久本)』に生々しく描かれていますが、朝廷は道真公の霊魂を鎮めるために、京都北野の地に道真公を祀り、一条天皇の命令で「北野天満宮天神」の称号を授かっています。ついに道真公は怨霊から国家の守護神に生まれ変わったのです。
(北野天満宮、京都市上京区)以前、撮影した写真ですが、境内には神牛像も見られました。
〇「府の大寺」として栄えた観世音寺
往古の観世音寺は諸堂、七堂伽藍を完備して、境内に三七宇の建物が並ぶ大寺院であったことが『観世音寺資財帳』に記されています。かつて東大寺(奈良県)、薬師寺(栃木県)の戒壇とともに「天下の三戒壇」の一つとして、仏門を目指す学徒が受戒する西国随一の「府の大寺」として栄えたのです。
最澄や空海、鑑真が唐から帰朝の際に観世音寺に留まったのも、この戒壇があったからでしょう。
(戒壇院参道)
(戒壇院惣門)
「大君の遠の朝廷」と呼ばれた古代の息吹が残る大宰府政庁跡東方に隣接し、正面には本堂(講堂)、左手に金堂が見えますが、いずれも江戸初期に黒田氏が再建した建物で福岡県文化財です。現在は博多聖福寺の末寺となっています。
「一栄一落是春秋」とは道真公の言葉ですが、隆盛を極めた寺も、その後、豊臣秀吉らに寺領を奪われて衰退し、その面影は失われましたが、今は静寂な佇まいの中、宝蔵前に梵鐘(国宝)が鐘楼に吊るされています。この梵鐘は道真公が落涙したゆえに国宝指定されたのではなく、日本最古の音を奏でることにその由縁があります。
〇わが国最古の梵鐘
我が国に梵鐘が伝わったのは「銅鏤鍾三口・五色の幡二竿(略)蘇我稲目宿穪大臣に送る」(『日本書紀』と欽名天皇二三(五六二)年)に高句麗から銅鏤鍾三口を持ち帰ったとの記録が一番古い記載です。ただ、この銅鏤鍾は現存しておらず、寺院で使われた梵鐘かは定かではありません。
臨済宗・正法山妙心寺(京都市右京区)の梵鐘に「戊戌年四月一三日壬寅収糟屋評造春米連広国鋳鐘」の銘がありますが、戊戌年とは飛鳥時代後期の文武天皇二(六九八)年にあたり、この梵鐘が現存する日本最古の紀年銘です。
観世音寺の梵鐘はその形状や大きさより、妙心寺の梵鐘と兄弟鐘、姉妹鐘と呼ばれますが、観世音寺の梵鐘には「天満」、「上三毛」「麻呂」などの陰刻があり、正倉院文書の戸籍帳から上三毛とは「豊前国上三毛郡」(福岡県上毛町)であることが判明しました。
また、この梵鐘の唐草文様が新羅系の軒瓦の文様と酷似していることから、渡来系の工人との関係が指摘されており、二つの梵鐘を鋳込んだ場所を豊前とする説があります。
果たして我が国最古の梵鐘は、どこで鋳込まれたのでしょう。
〇多々良(福岡市東区)の地で鋳込まれた梵鐘
船を遥かなる干潟のさきへまはして、たたら浜に徒にて行きて、
いにしえはここに鋳物師の跡とめて今もふみみるたたら潟かな
細川幽斎が『九州道の記』の中で詠んだ歌ですが、「たたら浜」とは足利尊氏の起死回生の戦となった「多々良浜合戦」で良く知られる地名です。
この多々良の地は現在は福岡市に編入されていますが、もともとは糟屋郡に編入していました。
(多々良浜古戦場の碑(福岡市東区)
京都の戦いに敗れ、九州に逃れた足利尊氏の起死回生の戦いの場となったところです。
また、先の神功皇后の三韓征伐に、新羅の製鉄基地の「蹈鞴津」の地名が記されていましたが、『筑前國続風土記拾遺』は、多々良の地名が我が国の古代の製鉄法に繋がる理由より、この多々良の地を鋳造地と推定しています。
(梵鐘の説明版)
さらに「筑紫大宰丹比真人嶋等、大きなる鍾を貢れり」(『日本書紀』)と、天武天皇十一(六八三)年の記載より、この二鐘だけでなく他の梵鐘が製作された可能性も高いことから、多々良の地に大規模な鋳造工場の存在が考えられます。
必然的に使用された青銅量も相当量になりますが、これほどの青銅をどのように入手したのでしょう。
九州で発見された三三ヶ所の青銅鋳型の内、十八例は奴国を中心とする福岡平野に集中しており、そして、八田遺跡(福岡市東区)からは、弥生時代としては最も大きな鋳型五点が出土しているように、この地で盛んに銅剣の鋳造がなされているのです。
また、久山町(福岡県糟屋郡)には中河内鉱山跡、縁山銅山跡など、大正時代まで採鉱を続けていた銅山がありました。
観世音寺の梵鐘は総高一五九・五センチ、竜頭高さ三五・四センチ、口径八六・四センチの堂々たる大きさです。これだけの大きさの梵鐘の運搬などを考慮すると、近郊での製造が好ましいはずで、糟屋評造が上三毛郡から鋳工を呼んで、糟屋郡の多々良の工房で鋳込んだと考えられます。
(観世音寺近くの石碑)
、
銀も 金も玉も 何にせむに まされる宝 子にしかめやも
都府楼跡(大宰府政庁跡)に向かう途中に立っていました。筑前守の山上憶良が、神亀五(七二八)年に詠んだ「子等を思ふ歌」の反歌です。この時代の金・銀などの金属がとても貴重であったことが示されています。
〇兄弟・姉妹鐘はどちらが先に鋳込まれたか。
さて、日本最古の妙心寺の梵鐘と観世音寺の梵鐘は同じ型で鋳造された兄弟・姉妹鐘とされています。果たして、先に鋳られた兄・姉にあたる梵鐘はどちらであろうか大いに興味をそそられます。
妙心寺の梵鐘は有銘で、観世音寺の梵鐘は無銘ですが、一般的には梵鐘は有銘の梵鐘よりも無銘の梵鐘が古いとされており、また、観世音寺の梵鐘は龍頭も小さく唐草模様も精微なことから、おそらく先に鋳られたのは観世音寺の梵鐘と思われます。そして、微妙に音色を変えようと鋳型を改良して鋳込まれたのが妙心寺の梵鐘でしょう。
(梵鐘)
(説明版)
現在は金網に囲まれており、梵鐘の内部などは観察できませんが、古代の優れた技術に思いを馳せながら鑑賞しました。「日本の音風景百選」に選ばれています。
妙心寺の梵鐘は、今は法堂内に安置されていますが、観世音寺の梵鐘は一三〇〇年もの星露を得た今も、荘厳なる平安の妙音を古都大宰府の町に響かせています。
〇斉明天皇の冥福を祈る観世音寺
都府樓纔看瓦色(都府楼はわずかに瓦色をみる)
観音寺只聴鐘聲(観世音寺はただ鐘声をきく)
道真公は配所の南館で、ひたすら謹慎の日々を過ごしています。朝夕に聴こえてくる鐘の音を侘びしい館で聴くばかりで、一歩も門を出まいとの悲痛な思いが綴られた七言律詩『不出門』の中の一文です。その彼に届いた鐘音は幽閉先から約一・四キロ離れた古刹、観世音寺の梵鐘(国宝)でした。


手を当てて 鐘はたふとき 冷たさに 爪叩き聴く そのかそけきを
アララギ派の歌人長塚節もその一人です。喉頭結核を病んでいた彼は、治療の為に東京から福岡へやってきますが、この観世音寺を訪れてこの歌を詠みました。彼が三七歳で亡くなるわずか二ヶ月半前のことです。胸迫るものがあります。

ここ九州筑紫の地で、一人の女帝が波乱の生涯を閉じました。皇極天皇として即位し、その後、再び斉明天皇として即位し、百済国救援のために九州へ出兵するも本陣を敷いた橘広庭宮(福岡県朝倉市)で崩御されました。
観世音寺は御年六八歳の母、斉明天皇の冥福を祈り中大兄皇子(天 智天皇)が発願以来、八〇余年もの歳月をかけて、中央から造観世音寺別当として派遣された当代きっての高僧、玄昉のもとでようやく完成し、落慶法要供養が行われたのが、天平十八(七四六)年六月十八日です。


正面には本堂、左手に金堂(いずれも福岡県文化財)が見えます。江戸初期に黒田氏が再建した建物です。ちなみに太宰府天満宮でも感じましたが、参道や境内には楠が繁っていますが、この楠は太宰府市の「市の木」で、言うまでもなく「市の花」は梅の花です。
〇配流、転落、怨念の地であった大宰府
この晴れの日を記した『元亨釈書』 や『扶桑略記』などの記述は、何とも凄まじいものがあります。
「玄昉法師、大宰府観世音寺供養之日、為其導師、乗於腰けて、後日、其首落置干興福寺」と、導師の玄昉が梵鐘を鳴らした時、にわかに雲が曇り雷とともに悪霊が現れ、玄昉を掴んで空に舞い上がり、頭は興福寺(奈良市)の境内に、胴や手足は、ここ大宰府の地に落ちたとあります。
観世音寺の裏手の民家に、ひっそりと佇む簡素な石塔が、弟子たちが埋葬した「玄昉の墓」と言い伝えられている宝篋印塔です。

手書きの案内板もありましたが、観世音寺を訪れる人も気づかずに通り過ぎてゆくようです。ちなみに、「玄昉の頭塔」が興福寺(奈良市)近くにあります。大きなピラミッド型の頭塔のようですが、夏の奈良旅行を楽しみにしているところです。
世間では「藤原広嗣が霊の為に害はれぬ」(『続日本紀』)と、藤原広嗣の怨霊の仕業と噂しますが、その六年前の天平十二(七四〇)年です。
奈良の都で栄華を極めていた玄昉と吉備真備の両人の独断専横が目に余ると、藤原広嗣が九州より反乱を起こしました(藤原広嗣の乱)。 広嗣はあっけなく討伐されたものの、彼は大宰少弐、つまり、広嗣自身、中央から左遷された身で、強強い不満を抱いていたのです。そして、一方の玄坊もまた、配流された身でした。
「大君の遠の朝廷」と華やかに詠まれた大宰府は、中央からは遥かな配流、転落、怨念の地でもあったのです。
その極たる怨霊伝説が道真公です。京都では彼の死後、雷鳴、地震、日食など続けざまに異変が起こり、また、藤原時平一族の死、落雷による公卿の死傷、醍醐 天皇崩御など凶事が続出したことから、世間では「世を挙げて云う、菅師 の霊魂の宿忿 の所為なり」(『日本紀略』)と、道真の怨霊によると噂し、当時の貴族たちは畏れおののきました。
この大混乱の様子は『北野天神縁起絵巻(承久本)』に生々しく描かれていますが、朝廷は道真公の霊魂を鎮めるために、京都北野の地に道真公を祀り、一条天皇の命令で「北野天満宮天神」の称号を授かっています。ついに道真公は怨霊から国家の守護神に生まれ変わったのです。

〇「府の大寺」として栄えた観世音寺
往古の観世音寺は諸堂、七堂伽藍を完備して、境内に三七宇の建物が並ぶ大寺院であったことが『観世音寺資財帳』に記されています。かつて東大寺(奈良県)、薬師寺(栃木県)の戒壇とともに「天下の三戒壇」の一つとして、仏門を目指す学徒が受戒する西国随一の「府の大寺」として栄えたのです。
最澄や空海、鑑真が唐から帰朝の際に観世音寺に留まったのも、この戒壇があったからでしょう。


「大君の遠の朝廷」と呼ばれた古代の息吹が残る大宰府政庁跡東方に隣接し、正面には本堂(講堂)、左手に金堂が見えますが、いずれも江戸初期に黒田氏が再建した建物で福岡県文化財です。現在は博多聖福寺の末寺となっています。
「一栄一落是春秋」とは道真公の言葉ですが、隆盛を極めた寺も、その後、豊臣秀吉らに寺領を奪われて衰退し、その面影は失われましたが、今は静寂な佇まいの中、宝蔵前に梵鐘(国宝)が鐘楼に吊るされています。この梵鐘は道真公が落涙したゆえに国宝指定されたのではなく、日本最古の音を奏でることにその由縁があります。
〇わが国最古の梵鐘
我が国に梵鐘が伝わったのは「銅鏤鍾三口・五色の幡二竿(略)蘇我稲目宿穪大臣に送る」(『日本書紀』と欽名天皇二三(五六二)年)に高句麗から銅鏤鍾三口を持ち帰ったとの記録が一番古い記載です。ただ、この銅鏤鍾は現存しておらず、寺院で使われた梵鐘かは定かではありません。
臨済宗・正法山妙心寺(京都市右京区)の梵鐘に「戊戌年四月一三日壬寅収糟屋評造春米連広国鋳鐘」の銘がありますが、戊戌年とは飛鳥時代後期の文武天皇二(六九八)年にあたり、この梵鐘が現存する日本最古の紀年銘です。
観世音寺の梵鐘はその形状や大きさより、妙心寺の梵鐘と兄弟鐘、姉妹鐘と呼ばれますが、観世音寺の梵鐘には「天満」、「上三毛」「麻呂」などの陰刻があり、正倉院文書の戸籍帳から上三毛とは「豊前国上三毛郡」(福岡県上毛町)であることが判明しました。
また、この梵鐘の唐草文様が新羅系の軒瓦の文様と酷似していることから、渡来系の工人との関係が指摘されており、二つの梵鐘を鋳込んだ場所を豊前とする説があります。
果たして我が国最古の梵鐘は、どこで鋳込まれたのでしょう。
〇多々良(福岡市東区)の地で鋳込まれた梵鐘
船を遥かなる干潟のさきへまはして、たたら浜に徒にて行きて、
いにしえはここに鋳物師の跡とめて今もふみみるたたら潟かな
細川幽斎が『九州道の記』の中で詠んだ歌ですが、「たたら浜」とは足利尊氏の起死回生の戦となった「多々良浜合戦」で良く知られる地名です。
この多々良の地は現在は福岡市に編入されていますが、もともとは糟屋郡に編入していました。

京都の戦いに敗れ、九州に逃れた足利尊氏の起死回生の戦いの場となったところです。
また、先の神功皇后の三韓征伐に、新羅の製鉄基地の「蹈鞴津」の地名が記されていましたが、『筑前國続風土記拾遺』は、多々良の地名が我が国の古代の製鉄法に繋がる理由より、この多々良の地を鋳造地と推定しています。

さらに「筑紫大宰丹比真人嶋等、大きなる鍾を貢れり」(『日本書紀』)と、天武天皇十一(六八三)年の記載より、この二鐘だけでなく他の梵鐘が製作された可能性も高いことから、多々良の地に大規模な鋳造工場の存在が考えられます。
必然的に使用された青銅量も相当量になりますが、これほどの青銅をどのように入手したのでしょう。
九州で発見された三三ヶ所の青銅鋳型の内、十八例は奴国を中心とする福岡平野に集中しており、そして、八田遺跡(福岡市東区)からは、弥生時代としては最も大きな鋳型五点が出土しているように、この地で盛んに銅剣の鋳造がなされているのです。
また、久山町(福岡県糟屋郡)には中河内鉱山跡、縁山銅山跡など、大正時代まで採鉱を続けていた銅山がありました。
観世音寺の梵鐘は総高一五九・五センチ、竜頭高さ三五・四センチ、口径八六・四センチの堂々たる大きさです。これだけの大きさの梵鐘の運搬などを考慮すると、近郊での製造が好ましいはずで、糟屋評造が上三毛郡から鋳工を呼んで、糟屋郡の多々良の工房で鋳込んだと考えられます。

、
銀も 金も玉も 何にせむに まされる宝 子にしかめやも
都府楼跡(大宰府政庁跡)に向かう途中に立っていました。筑前守の山上憶良が、神亀五(七二八)年に詠んだ「子等を思ふ歌」の反歌です。この時代の金・銀などの金属がとても貴重であったことが示されています。
〇兄弟・姉妹鐘はどちらが先に鋳込まれたか。
さて、日本最古の妙心寺の梵鐘と観世音寺の梵鐘は同じ型で鋳造された兄弟・姉妹鐘とされています。果たして、先に鋳られた兄・姉にあたる梵鐘はどちらであろうか大いに興味をそそられます。
妙心寺の梵鐘は有銘で、観世音寺の梵鐘は無銘ですが、一般的には梵鐘は有銘の梵鐘よりも無銘の梵鐘が古いとされており、また、観世音寺の梵鐘は龍頭も小さく唐草模様も精微なことから、おそらく先に鋳られたのは観世音寺の梵鐘と思われます。そして、微妙に音色を変えようと鋳型を改良して鋳込まれたのが妙心寺の梵鐘でしょう。


現在は金網に囲まれており、梵鐘の内部などは観察できませんが、古代の優れた技術に思いを馳せながら鑑賞しました。「日本の音風景百選」に選ばれています。
妙心寺の梵鐘は、今は法堂内に安置されていますが、観世音寺の梵鐘は一三〇〇年もの星露を得た今も、荘厳なる平安の妙音を古都大宰府の町に響かせています。
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