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○茶席を彩る茶釜の旅⑦~芦屋釜に使われなかった芦屋の砂鉄~

2018/ 05/ 14
                 
 いずれはたたら製鉄法による鉄づくりを取り上げようと考えていますが、ずいぶん先になりそうですので、ここでは芦屋の砂鉄についての実験結果を紹介します。


〇芦屋の砂鉄


  ここ芦屋の地は、茶釜の原料の砂鉄や鋳型に使う土が豊富な地です。以前に、私は芦屋や出雲など各地の砂鉄の成分分析や還元実験を行い、比較したことがあります。その実験結果では、芦屋の砂鉄は酸化チタンの含有量も多く、金属学的には必ずしも良質な砂鉄と言えないものでした。

 この芦屋の砂鉄を原料に用いたとすれば、多分に多くの困難に遭遇したと思われますが、ただ、芦屋鋳物師が活躍した時代の製鉄遺構が未だ発見されてないことから、出雲地方などの地金を用いたと推測されています。

 とは言え、芦屋釜の大きな特徴に約二ミリと言われる釜の薄さがあります。このような薄い隙間の空間に、融点の高い鉄を満遍なく行き渡らせるのは容易な作業ではないことから、高度な技術を持つ技術者が存在したのでしょう。

 この地に移った大宰府の鋳物師たちの存在が思い起こされます。

IMG_1067.jpg夏井ヶ浜 点10001-2砂鉄層  

 『鉄の文化史』出版の際の古い写真やデータで恐縮ですが、当時、夏井ヶ浜(芦屋町)で採集した際の写真です。この砂鉄の実験結果などを紹介します。(試料やデータも少ないことからあくまでも参考程度に留めてください。)

 なお、実験資料は多々良川(福岡市東区)、新宮海岸(同)、糸島海岸(福岡県糸島郡)、芦屋海岸(福岡県遠賀郡)、椎田町海岸(福岡県築上郡)、出雲(島根県奥出雲町)の砂鉄です。

天490001-2電子顕微鏡写真 グラフ1-2粒度分布表

 砂鉄にも採集場所などにより山砂鉄、海岸砂鉄、河砂鉄などがあり、また、たたら場独特の外観による真砂砂鉄、赤目砂鉄などの分類もあります。

 電子顕微鏡で各地の砂鉄を観察しましたが、形状、大きさなど本当に砂鉄も個性的です。分布表からは意外に大きさのばらつきが見られますが、芦屋の砂鉄は出雲同様に中間帯の大きさが多いようです。

表1-2化学分析値 グラフ4-2還元結果

 一般的に製鉄用原料砂鉄は二酸化チタン(TiO2)含有量で評価され、二酸化チタンの少ない砂鉄ほど良質とされています。多々良や糸島は非常に少ないですが、芦屋は飛びぬけて大きな数値を示しています。
 また、有害な元素である硫黄(S)も大きな数値を示しています。このようなことから構成成分的には、芦屋は良質な砂鉄とは言えない結果が出ました。

では、この砂鉄の還元実験結果を見てみます。

 還元率は多々良、新宮、出雲、糸島、椎田、芦屋の順に高く、還元症状に大きな相違が見られます。

 小粒な砂鉄は比表面積が大きいので熱伝導が早く、反応性が大きくなって還元が進んだと思われ、また、化学分析値では、際立った傾向は表れてないものの二酸化チタンの少ない多々良の還元率が高く、また、全鉄の多い多々良、新宮は還元が進んでいることからも脈石成分の少ない砂鉄の還元性状が良好であることがわかります。

 このような実験結果からは成分的にも二酸化チタンが多く、全鉄が少なく脈石成分が多い芦屋の砂鉄は還元結果も芳しくなく、良質な砂鉄とは言えない結果となりました。

 現在の釜作りにも芦屋の砂鉄は使われてはいないようです。



堅苦しい内容になってしまいましたが、次回もよろしくお願いします。
                 
        

○茶席を彩る茶釜の旅⑥~芸術品としての芦屋釜の製法~

2018/ 05/ 12
                 
 先週のNHKの『ブラタモリ』では、タモリさんが京都・宇治を探訪していました。宇治と言えば高級抹茶の産地として知られますが、その理由をタモリさんが町を散策しながら、地形や地質などをヒントに探っていました。
 私の好きな番組ですが、興味深い内容で大いに楽しめました。

 今回は茶席の主役の役割を果たしている茶釜がどのように製作されるかを探ってみます。



〇「芦屋釜の里」を訪ねて

 芦屋での鋳造が絶えて、凡そ四〇〇年の歳月が流れた今日ですが、今なお芦屋釜の評価は高く、国指定重要文化財に指定されている九個の茶釜のうち八個が芦屋釜で、残る一つが天明釜です。(茶釜には国宝はないようです)

 この茶人に愛された芦屋釜の貴重な技術を現在に甦らせようと、平成七(一九九五)年に設立されたのが、遠賀川河口右岸の山鹿に位置する「芦屋釜の里」です。

 四季折々を彩る植物に囲まれた日本庭園には資料館や茶室、茶処、復興工房が点在しており、かつての芦屋釜の隆盛を偲びながら、ここより茶釜の製法を見ることにします。

IMG_1076_201805071656136e4.jpg駐車場からの風景 

IMG_1078_201805071656154d3.jpg長屋門

IMG_1079_20180507165615a13.jpg入り口

IMG_1178.jpg蘆庵(茶室)

IMG_1183_20180507165620b9c.jpg吟風亭(茶室)

IMG_1169_20180507165617017.jpg資料館の館内風景

  私が訪ねたのは平日でしたが、長屋門をくぐり抜けると花と緑あふれる約3000坪の日本庭園が広がり、小鳥のさえずりも聞こえ、とても癒される思いで散策しました。

 吟風亭ではちょうど茶会が開かれており、内部の見学はできませんでしたが、私は長屋門横の立礼席で抹茶をおいしくいただきました。

 芦屋釜資料館には、復興工房の鋳物師が復元した芦屋釜の名器が展示されており、見応えがありましたが、芦屋釜特有の造形や文様など何かと勉強になりました。また、梵鐘などの鋳造も行われていたことから梵鐘なども展示されています。



〇梵鐘製法に使われていた「挽き中子」の製法

  芦屋釜は「下野國天明釜も名産なれ共、蘆屋釜には及ばず。京江戸の釜匠も、蘆屋流に傳ふる引中心と云精巧の法を知らず」(『筑前国続風土記土産考』)と、天明釜や京江戸の釜とは異なる独特の製法で造られたとあります。

 ここでの引中心(挽き中子)とは、梵鐘に使われていた製法のことですが、それまでは釜の厚さだけ中子を削り取る「削り中子」での製法でした。

 白鳳の古鐘が響いた太宰府の地に、鋳造工房群遺跡が無くなり、それに代わるように芦屋の地で、茶釜や梵鐘の鋳造が盛んになったことは既に触れましたが、おそらくこの地に移り住んだ太宰府の鋳物技術者が、梵鐘の製法を茶釜に取り入れたと思われます。

 そのことを物語るように、ここ芦屋では茶釜だけではなく梵鐘や鰐口などの仏具も盛んに製造されていました。そして、興味深いことに、一般的には仏具には装飾的な文様はほとんど見られませんが、芦屋の梵鐘などの仏具には文様が施されたものが多く見られます。梵鐘の製法や文様を茶釜に取り入れたことが伺えます。

 このブログの『大宰府(福岡県太宰府市)より⑤~諸行無常の梵鐘の音色とその製法~』 (2017年6月5日)で、梵鐘の製法は記しています。

              
〇芦屋釜の製作工程

IMG_1216_201805071801012e1.jpg芦屋釜復興工房

IMG_1212_20180511223522f90.jpg工房内部

 芦屋釜の製作は、敷地内の復興工房で製作されています。残念ながら訪れた時には作業は行われていませんでしたが、秋頃に鋳込み作業の見学可能ということでしたので、楽しみにしているところです。

 今回は、復興工房や資料館の資料や写真などを参考に製作工程を探ってみます。


IMG_1193.jpg挽き板(写真①)

IMG_1195_20180507181454724.jpg鋳型(外型)作り(写真②)

IMG_1190.jpg下絵(写真③)

IMG_1197.jpg文様付け(写真④)

 まず、美術品・芸術品ゆえに胴の形や図文、鎮付や蓋などのデザインを決めなければなりません。胴の縦断面図を紙に描き、この紙型の半分の形を薄板で作り、そして、板を回転させるための軸と横木を取り付けて挽き板を作ります(写真①)。

 ここからは梵鐘と同じように、鋳物土を塗りながら、挽き板を回転させて外型を作ります(写真②)。上型を作り終わると挽き板の上下を逆にして、同じように下型を作り、そして、鐶付の鋳型は別に作っておき上型にはめ込みます。

 外型ができたら土が軟らかいうちに、薄い和紙に描いた絵柄(写真③)を上からなぞって描きます(写真④)。画僧の雪舟や狩野派の画家たちも筆を取ったと言われるように、『雅な釜』には生命線とも言える重要な作業です。


IMG_1103_201805071810424c9.jpg中子(写真⑤) 

IMG_1198.jpg中子作り(写真⑥)

 次に中子(⑤)を上下に分けて作ります。

 上半分は外型と同じように鋳物土を塗りながら、挽板を回転させて作る「挽き中子法」と呼ばれる方法で作ります。先に「蘆屋流に傳ふる引中心と云精巧の法を知らず」(『筑前国続風土記土産考』)と独特の製法で造られたとありましたが、この記述を裏付ける挽き筋目が釜の内部に残っているものがあります。

 下半分は外型に中子砂を入れて、釜と同じ形の塊を作り、乾燥後に金属の厚み分だけ砂を削り落とす「挽き中子法」と呼ばれる方法で隙間を作ります。

 そして、外型は焼いて煤を吹き付け、中子には鉄の焼き付けを防ぐ炭汁を塗ります(写真⑥)。

IMG_1203_201805071812592b6.jpg鋳型断面図(写真⑦) 

IMG_1122.jpg鋳込み(写真⑧)

IMG_1200.jpg仕上げ(写真⑨)

 次に鋳型の組み立てです。

 上型を下にして中子を入れ込み、その上に型持ちを着けて隙間を保ち下型を被せます。そして、下型の底に湯口を作ると、鋳型の完成です(写真⑦)。

 いよいよ一番緊張する甑炉による鋳込み作業です(写真⑧)。

 今日の再興を果たすには大変な苦労を伴ったようですが、青銅と違い融点の高い鉄です。湯の温度が低いと途中で固まり、逆に湯の流動性を高めようと温度を上げると、ガスが発生したり、冷却の際に収縮して割れる可能性もあります。

 一体に砂鉄より取り出した鉄は、優れた性質を持つものの温度調整が難しいとされることから、芦屋釜の特徴である約二mmと言われる薄さ、軽さを鋳込む作業は困難を極めたことでしょう。

 鋳込みが終了すると、いよいよ製品を取り出します。

 緊張の場面ですが、取り出した製品は表面は荒いので蛮などで形を整え、漆や弁柄などで色付けをし蓋を作ると完成となります(写真⑨)。

 芦屋釜は十数年にわたり製作実験を繰り返し、平成21(2009)年に初めて釜の復元に成功しています。ただ、現在でも成功率は三割程度との事ですから、その技術的困難さを窺い知ることができます。

 現在の鋳物師は多大な苦労を重ねたに違いありませんが、この芦屋の地に於いて、高貴な佇まいを秘めた「室町の名器」の復興が為されたのは実に喜ばしいことです。

 

〇日本人の美意識
 
 それにしても、中国から入ってきた茶を、作法と形式の奥に深いものを見ようとする「茶道」に高めた日本人の独特な美意識を思わずにはおれません。

 決して容易でない鉄鋳物です。その鉄を巧みに扱い、造形だけでなく砂目肌やあられ文、あるいは焼き肌などの地肌に深い美を追い求めて、寂の趣、侘びのたたずまいを秘める尊厳な芸術品に高めたのです。

       次回もよろしくお願いします。
                 
        

○茶席を彩る茶釜の旅⑤~雅な「芦屋釜」の登場~

2018/ 05/ 04
                 
  諸事情で1ヶ月ぶりの発信となってしまいました。

ashi-gazo-11-500[1]芦屋町のイメージキャラクター「アッシー」君

 2週間ほど前ですが、好天に恵まれたことから北九州方面に車を走らせて芦屋町(福岡県遠賀郡)までドライブを楽しみました。芦屋は響灘に面する海岸線の綺麗な 町ですが、あちこちで見かけたのが、町のイメージキャラクター「アッシー」君でした。

 今回の旅はもちろん「芦屋釜」を訪ねることです。



〇「室町の子」と記した司馬遼太郎

「私どもは、室町の子といえる。(略)華道や茶道という素晴らしい文化も、この時代を源流としている。能狂言、謡曲もこの時代に興り、さらにいえば日本風の行儀作法や婚礼の作法も、この時代からおこった。私どもの作法は室町幕府がさだめた武家礼式が原典になっているのである。」(『この国のかたち』)と記したのは司馬遼太郎氏です。

 実際、鎌倉時代から南北朝と続いた戦乱が収まり、将軍、足利義満の頃には、能や生け花などとともに茶の湯が流行します。そして室町中期まで武家、公家、寺院の間で賞用されたのが芦屋釜で、茶釜と言えば芦屋釜を意味するほどでした。

  室町後期に記された一条兼良(1402~81)の『尺素往来』に「培爐者松材、茶臼者衹蛇林。鑵子者葦屋。風爐者奈良。』とあり、また、醍醐寺(京都市伏見区)の責任者が宗像大社の大宮司へ「尚々御釜事 不遅々様 別而 可有御計候也 恐々謹言」(『宗像大社文書』)と釜の到着を催促している内容の応永14(1407)年の書状などが残っています。芦屋の名は記されていませんが、おそらく芦屋釜を指しているとされており、このような文書から、室町時代には芦屋の釜が重宝されていたことを知る事ができます。


〇賑わった芦屋釜の産地
 
 「岡の湊の南のほとりにあり。むかひは山鹿の里也。(略)昔此地に釜を鑄る良工数家あり。下野國(栃木県佐野市)天明釜よりなほ精巧也。(略)蘆屋釜とて天下に其名いちじるし」(『筑前国続風土記』)とあるのが、天下にその名を知らしめた芦屋釜の生産地で、また、米・石炭・塩などの福岡藩の積み出し港として、「旅船多く出入りして、交易の利多く、民家にぎはへり。」(『同』)と賑わい、「芦屋千軒、関千軒」と下関市(山口県)と並び称されるほど栄えた港町の芦屋町です。

IMG_1059.jpg遠賀川の河口

IMG_1046.jpg芦屋釜のレリーフがはめ込まれている芦屋橋

IMG_1034.jpg山鹿城址の碑

 国道495号を走ると響灘へと注ぐ遠賀川が現れてきます。写真は遠賀川に架かる芦屋橋からの河口風景ですが、この河口の右岸がかつての山鹿、左岸が芦屋で、明治三八(一九〇五)年に合併して芦屋町となっています。

 芦屋釜のレリーフを楽しみながら橋を渡り山鹿に入ると、橋の右側に鬱蒼とした丘陵地が現れますが、かつての「山鹿城」の跡地で、「山鹿兵藤次秀遠の城跡」の石碑が立っています。現在は城山公園として整備され、桜の名所になっていますが、ここから芦屋町が展望できます。



〇芦屋釜の起源

 この芦屋釜の起源は定かではないものの、元禄一三年(一七〇〇)年)に西村道冶が記した『釜師之由緒』に「釜鋳元祖は土御門院建仁年中、栂尾明恵上人、筑前国芦屋に御茶釜初而鋳しむる也」と、明恵上人が芦屋の鋳工に窯を鋳させたとも記されています。

 また、京都三条釜座の釜師である名越昌隆の『鋳家系』には、「弘安の頃筑前の国蘆屋の里にて初て釜を鋳る、其後應永の頃館子一宮真如良と云異国人来朝して、同所に於て釜を鋳る至て上作也、是蘆屋釜の始也」とありますが、ただ、製作者の名前や年代を記した釜が見つかってなく確証がありません。

 製作年がはっきりしている茶釜は明応三(一四九四)年作と刻まれた「鱗文真形釜」が最も古く、「芦屋釜」の名称が文献に登場するのは、「慶和尚参(一慶尚参)。對面。蘆屋釜一。蠟燭十廷被進」(『看聞御記』嘉吉三(一四四三)正月二二条翰廿二日条)とあるのが最古です。そして、その後は公家、武家、寺院の日記等にしばしば見られるようになります。

 とは言え、弘安九(一二八六)年の銘の鰐口も発見されており、また、観応元(一三五〇)年、生平一一(一三五六)年の2口の梵鐘の遺品があることから、芦屋鋳物師の起源は鎌倉時代まで遡ることができそうです。

IMG_1052.jpg「かなや公園」の説明板

IMG_1041.jpg 筑 前 蘆 屋 釜 鋳 造 跡 の 碑

 山鹿の対岸 (遠賀川河口左岸) の「芦屋」で、盛んに鋳物作りが行われたとされていますが、実はこの石碑を探すのに苦労しました。

 「芦屋市商工会館」の看板を見つけましたので、場所を尋ねると、わざわざ事務局長さんに現地まで案内していただき、また、芦屋釜や芦屋の砂鉄などの貴重な話を伺う事ができました。多忙な中のご親切に本当に感謝です。

 案内していただいた芦屋橋近くの民家に、石碑は静かに佇んでいましたが、この周辺は、かつて金屋町と云われていた場所で、多くの鋳物師が居住していたとされています。

 近くの「かなや公園」には、芦屋の歴史を紹介した説明板が設置されていました。


IMG_1226_20180414115238e63.jpg芦屋町歴史民俗資料館

IMG_1268.jpg芦屋津ジオラマ

IMG_1247.jpg鋳造工房ジオラマ

IMG_1232.jpg金屋遺跡の説明文

IMG_1255.jpg炉壁の破片

IMG_1234.jpg芦屋釜の鋳型

IMG_1264.jpg十徳釜

 芦屋町歴史民俗資料館には金屋遺跡などから出土した炉の破片や鋳型、鉄滓などが展示されていますが、芦屋のかつての賑わいを示すジオラマも展示されており、鋳造工房の様子を窺うこともできます。

 なお、明恵上人が、お茶の効用『十ヶ条』を芦屋釜に鋳させたと伝わる「茶の十徳釜」が展示されていましたが、この釜については「広報あしや第五十号」に紹介されていますので、その文章を掲載します。
 
 「茶の湯釜の研究家であり、芦屋釜の研究家でもある故長野垤志氏は、その著『茶の湯釜研究-芦屋釜」 の中で次のように述べられている。「茶の十徳釜こそ筑前芦屋の一番古い視形に近い遺品と考えられ、建仁年間栂尾(とがお)の明恵上人が筑前芦屋に命じ「茶の十徳句文を釜に鋳つけさした」と書いてあるのはこの釜ではないか。この釜の形態は世に三口しか見つからず、藤原時代の感じを残している』と、なお又氏は茶の十徳釜が現存する茶の湯釜の中では、もっとも古い鎌倉初期の作品であることを、その形やかん付(つけ)の形式などから説明されている。この茶の十徳釜の口径は一二・四糎、胴径は二三糎、高さ一六・二糎でかん付は茶の実となっている。」



〇美しい装飾文様の芦屋釜

 芦屋釜の特徴は、真形と呼ばれる端正な形姿に「また古の蘆屋釜に、雪舟が圖する所間々有之。土佐氏畫工の圖も有」(『筑前国続風土記土産考』)と、画僧の雪舟や狩野派の画家たちも筆を取ったように、艶かな鉄肌を彩る松竹梅、山水、浜松などの美しい装飾文様で、俗に言う優雅な雰囲気漂う「雅な釜」、「きれい釜」です。

 この雅な釜を鋳出する芦屋釜の手法は、芦屋釜が廃れるに伴い、いつしか伊勢芦屋(三重県)、越前芦屋(福井県)、播州芦屋(兵庫県)、石見芦屋(島根県)などと呼ばれるように、各地に広まったとされます。

IMG_1114.jpg浜松図真形釜(重要文化財復元品)

IMG_1115.jpg同上 拡大写真

IMG_1112.jpg霰地楓鹿図真形釜(重要文化財復元品)

IMG_1116_20180416154316a63.jpg同上 拡大写真

 写真は「芦屋釜の里」の資料館に展示されている写真です。(芦屋釜の里は後日、紹介します。)

 図録の説明によれば、浜松図真形釜は釜の今残っている芦屋釜のうちで、もっとも古い時期の作品の一つで、製作の時期は鎌倉時代末まで上るだろうと言われており、芦屋釜を調べるときの手本となる釜だそうです。

 また、霰地楓鹿図真形釜は全体的にふっくらとした感じで、楓の木の下で「仲よく遊ぶ鹿2匹、3匹。のどかな秋日和の野原が目に浮かぶようです」とありますが、芦屋釜を代表する作品です。



 次回も、芦屋釜を取り上げます。
                 
        

○茶席を彩る茶釜の旅④~松永久秀の命より重かった『古天明平蜘蛛』~

2018/ 04/ 06
                 
 ちょっと間が開いてしまいましたが、前回の話に続きます。


〇茶器とともに爆死した松永久秀

 『古天明平蜘蛛』は、湯が沸き上がり釜の肌が乾くと、蜘蛛が這いつくばって動きだすように見える由縁から平蜘蛛釜の名がつけられていますが、このような異態・奇形の形をなした茶釜は、当時、霊力が宿るものとして尊ばれていたのです。

 織田信長が喉から手が出るほど欲しがった希代の名物ですが、もはやここまでと悟った松永久秀の意地でもあったでしょう。

 「平蜘蛛の釜と我等の頸と、二ツは、信長殿御目に懸けまじきとて、みじんこはいに打ちわる。言葉しも相たがわず、頸は鉄炮の薬にてやきわり、みじんにくだけければ、ひらぐもの釜と同なり(『川角太閤記』)と、平蜘蛛釜を叩き割り自爆(または平蜘蛛の釜に火薬を詰めて首に鎖で縛りつけ、釜もろともに爆死)して、壮絶な最期を遂げました。

 永禄一〇(一五六七)年一〇月一〇日。享年六八。奇しくも、この日は一〇年前に東大寺大仏殿を焼き払った日と同月同日でした。

 別説では、この平蜘蛛釜は信貴山城跡から出土し、織田信長に渡されたとも、また、剣術の祖として知られる「柳生家」に渡り現存するとも伝わりますが、このような後談が残るとは、それだけの垂涎の茶器であったということでしょう。

kbk4[1]『古天明平蜘蛛』(浜名湖舘山寺美術博物館HPより)

この写真は浜名湖舘山寺美術博物館(静岡県浜松市)に保管されている平蜘蛛です。

 由来に寄れば信貴山城跡から出土したとされていますが、このように口が広く胴部の丈が低い平釜で、湯が滾るにしたがい蜘蛛が這い回るように見えたと言われていますが、如何にもと思われるような形と言えます。

 この松永久秀所有の『古天明平蜘蛛』の作者は不明ですが、生産地は天明釜、すなわち、下野国天明(現、栃木県佐野市)産の茶釜です。特に桃山時代以前のものを古天明と呼んでいますが、筑前国芦屋(現、福岡県遠賀郡芦屋町)産の釜と並び称された釜です。




〇近世城郭の魁であった松永久秀の多聞城

 それにしても、冷酷、非情な織田信長ゆえに、問答無用の斬首が当然と思われますが、一度ならずも二度も松永久秀の裏切りを赦しました。織田信長は、何故に、松永久秀にここまで寛容であったのでしょう。

 天正二(一五七四)年、大和支配の拠点として松永久秀が築いた多聞城を初めて訪れた織田信長は、その城の姿の美しさに密かに息を呑みました。

 東大寺や興福寺、春日大社を見下ろす標高一一五メートルの山に築かれた城には、四重の長屋式の櫓、すなわち「多聞櫓」が誇らしげに巡っていたのです。日本初の天守とも言われる櫓ですが、この多聞城を見聞したフロイスが、「世界にこれほど立派なものありと思われず。入りて宮殿を見るに、人の造りたるものと見えず」(『フロイス日本史』)と賞賛したように、松永久秀の絢爛豪華な多聞城は、まさに近世城郭の魁でした。

 この城をさらに独創的に昇華させたのが、天下の名城と呼ばれた信長の安土城です。

この織田信長と松永久秀には、親子ほどの年齢差があったものの、芸術性や先進性など先駆的な共通点があり、織田信長には松永久秀は殺すにはまだまだ惜しい人物に写ったのでしょう。

DSC06761.jpg若草中学校の正門

DSC06763.jpg多聞城跡石碑 

DSC06759.jpg案内板

DSC06766_201803221512472c4.jpg若草公民館

DSC06781.jpg公民館内の展示資料

DSC06775.jpg公民館内の展示資料

 昨年旅したときに寄りましたが、東大寺や興福寺など奈良の町を一望できる丘陵に築かれたのが多聞城です。

 現在は奈良市立若草中学校(奈良市法蓮町)の敷地になっていますが、ここに壁は白壁、屋根は瓦葺きの長屋状の櫓(多聞櫓)が取り巻き、更には四階櫓が聳えていました。まさに見せる城でもあったように思われます。

 現在は、「多聞城跡」と刻まれた石標のみが多聞城のあったことを伝えるだけで、当時の様子を窺い知ることは叶いませんでしたが、有り難いことに、近くの若草公民館に多聞城の資料が展示されており、また、館長さんからもいろいろな話を伺うことができました。



 風薫る新緑の季節の到来ですが、新茶が楽しみです。


                 
        

○茶席を彩る茶釜の旅③~織田信長に茶器を献上した松永久秀~

2018/ 03/ 22
                 
 栄西が茶を我が国に持ち込んでから、茶を飲む習慣は茶道という芸術の域まで高められてきましたが、ここでは、茶道の美や精神を表現する重要な役割を担う茶器に注目します。


〇重要な茶道具となった茶釜

 「釜ひとつあれば茶の湯なるを数の道具を持つは愚かな」とは、利休百首の中の有名な一首です。

 また、茶人でもあった幕末の大老、井伊直弼は、その著『茶湯一会集』にて「一期一会」を茶道の一番の心得としていますが、茶釜の重要性を「この釜一口にて一会の位も定まるほどの事なれば、能々穿鑿をとくべし」と強調しています。

 現在でも「釜を掛ける」が茶会を指し、年初に開く茶会を「初釜」、茶室を新築した際の最初の茶会を「釜開き」と言うように、数多くある茶道具の中でも、釜は重要な茶道具の一つです。


〇織田信長に名物茶器『九十九茄子』を献上した松永久秀

 さて、一個の茶器が人命より重たかった象徴的な事件があります。その主人公は松永久秀と織田信長です。

 戦国下克上の時代に北条早雲・斎藤道三と並んで、「乱世の梟雄」と親鳥をも食らう不幸の悪鳥になぞられ、残忍で猛々しい人物と称される戦国武将松永久秀。

 彼が織田信長との運命の邂逅を果たしたのは、永禄一一(一五六八)年、足利義昭を擁した織田信長の上洛の報に接したときでした。

 この時、織田信長は三五歳、松永久秀は五八歳で、親子ほどの年齢差です。ただ時勢は織田信長にありました。

 どう足掻いても勝ち目はないと判断した松永久秀は、人質を差し出しただけでなく、茶人の垂涎の的であった名物茶器『九十九茄子』を織田信長に献上することで従順の意を示し、織田軍に服属しました。すでに茶器はそれだけの価値を得ていたのです。


SAME016X006-L[1] 『九十九茄子』(ネットから拝借しています。)

 名物茶器『九十九茄子』とは、下膨れの丸茄子に似た形の茶器で、もともと足利三代将軍、義満の秘蔵品で、代々将軍家に伝えられていた名品ゆえに、ときの権力者、実力者の間を転々とし、いつしか松永久秀のもとに行き着いていた唐物茶入れです。

 この大名物の茶器を手中にした織田信長は「本能寺の変」により、多数の名茶道具とともに、あっけなく炎に散りますが、この『九十九茄子』は、奇跡的に焼け跡から発見されました。

 その後、豊臣秀吉の手に渡り、大阪城に保管されていましたが、大坂夏の陣で再び、罹災してしまいます。ところがさすがの大名物です。またもや徳川家康の命により、焼け跡から探し出されました。

 今日、静嘉堂文庫美術館(東京都世田谷区)に所蔵されています。


〇織田信長より評された松永久秀

 この松永久秀、織田信長が評した次の言葉でよく知られます。「東照宮(家康)、信長に御対面の時、松永弾正久秀かたへにあり、信長此老翁人は世人なしがたき事三つなしたる者なり、将軍を弑し奉り、又己が主君の三好を殺し、南都の大仏殿を焚たる松永と申者なりと申されしに、松永汗をながして赤面せり」(『常山紀談』)。

 ここで言う人のようせぬ三つの悪事とは、すなわち主家、三好家を滅ぼし、室町幕府三代将軍、足利義輝を殺害し、そして東大寺大仏殿を焼き打ちしたことを指していますが、冷酷な性格で魔王とも称された織田信長にして、このように言わしめたことで、今日の松永久秀の極悪人の人物評が定着したとも言えます。


〇織田信長を裏切った松永久秀

 この二人が運命の邂逅を果たした三年後の元亀二(一五七一)年です。

 織田信長と対立した第十五代足利将軍、義昭の画策に甲斐の武田信玄ら諸大名が、信長包囲網を敷いて立ち上がった際に、腹の底では野望の火を燃やしながら機会を窺い続けていた松永久秀です。

 絶好の好機として叛旗を翻すものの頼みの綱の武田信玄の急逝により、彼の目論見は瓦解しました。この時、松永久秀は多聞城を引き渡すことで許され、再び織田信長の膝下に屈しました。


〇信貴山城に籠城した松永久秀
 
 その六年後の天正五(一五七七)年、松永久秀は、またもや織田信長を寝返ります。

 上杉謙信、毛利輝元、石山本願寺の反信長勢力と呼応して、上杉謙信の上洛に乗ろうとしたものの、上杉謙信が越後に引き返したことで、またしても松永久秀の読みは外れてしまいます。

 彼の失意は大きく、ここに至って、居城の信貴山城(奈良県生駒郡)に立て籠もったのです。

 織田信長の使者が城を訪れたのは落城前日です。彼が伝えた織田信長の意思は、天下にその名を知られた名物茶器の「古天明平蜘蛛」の釜を献上するなら命までは奪わぬとの内容でした。

 遂に、ここに至って、一つの茶器が大和一国にも比肩し、松永久秀の命にも代え難い存在となったのです。

DSC06855_201803191734183e4.jpg朝護孫子寺の駐車場

DSC06857.jpg登山道入口

DSC06856.jpg古びたポスター

 昨年、旅した際に立ち寄りました。

 標高433mの信貴山に築かれた信貴山城跡は朝護孫子寺の境内にありますが、駐車場の方が教えるには、40分ほど要するとのことでした。残念ながら、時間がなく登山を諦めましたが、山頂には松永屋敷跡や信貴山城石碑などがあるようです。